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第12代東本願寺法主教如上人は 1558年 第11代顕如上人の長男として石山本願寺(大坂)に生まれました、青年期を過ごした時代は織田信長が天下統一に乗り出した戦国時代の 真っただ中の頃でした。 当時の本願寺教団は経済力 組織力がありこの教団は 信長にとって 脅威であったので 織田信長は この本願寺に対して 巨額な軍資金や 寺の土地の退去等 無理難題を要求してきた為 教如上人の父親である 第11代顕如上人は織田信長と戦う決意をし 各地の門徒に 決起団結を促す檄文を送り 各地で門徒の一揆が起こりました。当時教如上人は 13歳の時でありました。この戦いも10年あまりに及んで 朝廷が和睦に入りますが 織田信長が再度 本願寺の寺の土地の明け渡し等 厳しい条件を突付け来た為 教如上人の父親はこの条件を受け入れ 石山本願寺を退却し和歌山県の鷺の森(さぎのもり)に本願寺を移転しましたが 信長に反発した教如上人は(当時23歳) 一時石山本願寺に篭城したが 信長に攻撃されやむなく退却させられました。 その後教如上人は慶長五年(1600年)7月に従者数名と共に関東に出向きました その際佐和山城に立ち寄った際石田三成は教如上人の思惑が わかっていたから強く引き止められたが 教如上人は聞き入れず 出はなった為 三成は 家臣に命じて 後を追ったが捕まえられなかった やがて家康に合い用を済ませた教如上人に 家康は名馬を送り尾張までの安全を手配してやった。間もなく美濃に入ると ここは戦場で 西方寺(羽島市)に転がり込む 途中墨俣の渡し場あたりで 帰還を知った三成方の襲撃に会い 門徒衆総出で 鍬や鋤で 上人を守り安八郡の光顕寺(安八郡安八町)に匿い本堂のしゅみ壇の下に隠れ(遺句現存)かろうじて逃げられた ここを出た上人の一行は 西円寺 (現在の大垣市に 入るが 三成に追われ 上人は逃げた 今度は池田町の正光寺 西法寺へとたどり遍光寺(春日村下ケ流)明隋寺 (同村香六)へと逃げ回ったが三成は容赦なく百余人の兵を出し 神社や民家をくまなく捜査する 教如上人は この頃春日村美束付近をさまよっていたが 捜索が厳しく 美束から西の尾西村の国見岳の中腹にある 岩窟に身を隠す(現在の教如岩)教如上人を数日間 この岩窟に隠れ村人達の捧げる粗食で命をつないだのである 1600年9月15日 ようやく受難続きの上人に 三成が関ケ原で敗れた と言う朗報が飛び込んできたのである 尾西村で しばらく休養した後  国見峠を越え近江長浜から 京都にたどり着いたのである。1592年(文禄元年)教如上人の父親が死亡し それから6年後秀吉が死亡 2年後には 徳川家康が実権を握り その又2年後  家康から京都東六条に土地を寄進」され 本願寺の門跡になる 重臣の本田正信の提案により 勢力二分した方が良いと進言し東本願寺は十二代法主は教如上人 西本願寺法主は弟の准如となりました。
   

20017年  執筆者   春日井市  新川 智男






遍 光 寺

正 光 寺

西 円 寺

光 顕寺

 西方寺





教如上人 と 教如岩